新年明けましておめでとうございます!
”ボーケリスト”ピーメンは、”エッセイイスト”でもあります。
新春記念エッセイをひとつ・・・
<”お返し”はないけど”仕返し”はあるの?> ある喫茶店での出来事です。
一人のお客さんがママさんに梅の木の置き物を持って来てプレゼントしました。
「まあ、いつも頂くばっかりですみませんねえ!お返しがしたくても私はビンボーでお返しができないんです。」
「いえいえ、いつも暖かい雰囲気の中でコーヒー飲ませてもらってるんでその”お礼の気持ち”ですよ。」
お客さんから色々もらえるのはママさんの”人徳”だと思っていましたが、私には素直に喜べないことがありました。
私の懇意にしている別のお客さんのKさんも家庭農園をやっていて、里芋とかねぎとか持ってきてあげていました。
私も”無農薬”の里芋を先日もらったばかりです。
特技を活かしてお店の前の車庫の花壇(プランタン)もただで造ってくれたのもKさんです。
また、中国人のパートの女性が日本語に慣れないので、連日お店の終了時間間際に来て、話し相手になって日本語の”特訓”をしてあげたのもKさんです。
ところが・・・・
農業(家庭農園)をやっているKさんが時間に鷹揚なので、お店の終了時間間際に来店することが
多かったのですが、ママさんはそれを実に迷惑そうに私に話すのです。
そしてその”事件”は起きました。
Kさんと私が二人で別のお店に出かけるのに、私の車に同乗して、Kさんの車をそのお店の駐車場に停めさせてもらいました。
”二時間ぐらいで取りに来る”と言ってでかけましたが、予定が狂って大幅に時間をオーバーしてしまい、Kさんの車を一晩停めてしまうことになってしまいました。
Kさんとしても、「お店には迷惑かもしれないが、色々やってあげてることもあるから・・・」という気持ちがあったかも知れません。
しかしお店に行ってみると待っていたのは・・・
「迷惑だったんで警察に通報しましたよ!」という言葉でした。
誰ともわからない人が停めたのではない。Kさんは”常連客”です。しかし普段からの不満がこういう形で出たのかも知れません。
・・・”お返し”はないけど”仕返し”はあるの?
一体ママさんはKさんに”してもらった”ことを忘れてしまっているのか知らん?
Kさんの車を一晩停めてしまったことには同乗していた私にも責任があるので私はママさんに翌日謝りに行きました。
謝るときは、言い訳よりもまず相手の気持ちを第一に考えることが大切です。肩肘張って言い訳したり、自己を正当化しようとすると余計こじれます。
「ママさん、昨日はゴメンネ〜!迷惑かけちゃったネ。これKさんだけじゃなくてボクも悪かったんだヨ。」
と言いましたら、色々事情を話してくれました。
一晩車を停めたことよりも、土曜日の朝でしたので、朝の7時から9時というかきいれ時の時間を車一台分つぶされたことが”打撃”だったそうです。そのため何度もKさんの携帯に電話しても留守電になっている。
何度も何度も駐車場を見に行ったそうです。
・・・なるほどそれは怒るのも”無理はないナ”
「でも、”警察に通報”はやりすぎだったわね。Kさん怒っているかしら・・・」
「三人それぞれに非があったわけで、誰”だけが”悪いというわけではなかったわね。」
・・・というところまで”譲歩”してくれました。
そもそもこのママさんが普段は明るくて暖かいのに、時々”カーッ”と来るのは、よんどころない”家庭の事情”によるものだと以前
聴かされていました。
個人的事情まで話してくれるのは、心を開いてくれていることなんだけど、また、自分も似たような問題を抱えていたので理解できるのだけれども
・・・・でもそれで関係ないお客に八つ当たりしちゃダメよ!
”赦す”ということは、”我慢する”ことではありません。”理解する”ことだと思います。”対等目線”で向き合って事情が理解できれば、相手を”けしからん!”と裁くのではなく、”無理もないナ”と理解し”赦す”ことができましょう。
そして当の本人がその言動を自分で説明できないほど混乱しているか?あるいは正当化しているか?
納得できる説明も陳謝もせず言い訳ばかりしている?場合でも、他の人が悟らせてくれることもあります。
父親を殺したいほど憎んでいた盲目の少年が、”父のラテンの血によって日本人離れした声が与えられた”ことをヴォイストレーナーから言われて、父を赦せた・・・あるいは”赦したい!”という気持ちを確認できた。この間、彼を”棄てた”父親は彼に対して何の謝罪もしたとは私は聴いていません。
でも彼は”赦せた”・・・
「お父さんに会えたら、ヘタな英語で挨拶したい。お父さんからもらった声で歌を聴いてもらいたい。」
♪お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの
(”さとうきび畑”より)
十字架上のハリストス(キリスト)には、裏切りの接吻をしたイウダ(ユダ)も、三度否定したペートル(ペテロ)も、自分を十字架にかけたファリセイ(パリサイ)派や、はてはローマ軍兵士たちの気持ちや事情を、神の御子としてすべてお見通しで理解しておられたのではないでしょうか?
「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているかわかっていないのです!」
最初の殉教者ステファノ(ステパノ)もこの言葉を残して召されました。
「主よ私の霊をお受けください。彼らに罪を負わせないで下さい!」
・・・人間、うぬぼれが強いものですから、
”他人にしてもらった良いことへの感謝”は忘れてしまって、
”他人にされたありがたくないことへの不満”
”他人にしてあげたことへの感謝の要求”
が主体になってしまいがちです。
他人に不満を感じたならば、あるいは恩に着せたくなったならば、
今一度その相手に対して”感謝できること”を思い返してみる必要があるのではないでしょうか?良くしてあげたことに感謝されず、悪いことに文句ばかり言われていたらこれに耐えられる人はそうはいません。
「あの人は私に文句ばっかり言っているが、私のしてあげた”良いこと”は忘れてしまっている!」
・・・これは誰でもわかります。その逆を考えてみることが大切です。いかに自分が”感謝知らず”だったかわかるかも知れません。
(そういう自分自身が・・・冷や汗(~_~;)
”感謝”とは”負い目を感じること”ではなく、”喜びを感じること”です。”福音”とは、”主イエスによって、負い目から開放されたことを伝えること”です。主にあるものが、”他人に負い目を負わせる”ファリセイ派のような言動をしてはなりません。
”恩に着せ”てはなりません。”感謝”するのです。そして”感謝できる”ことが”喜び”だということを知りましょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆることに”感謝”しなさい。」(テサロニケ)
そして”負い目”・・・
人間弱いものですから、自分の”負い目”を責められると余計に頑なになります。これはどんな人でも同じだと思います。
”負い目”と感じていなければ誰に責められても平気です。
(落合監督みたいに)
他人の”負い目”を責めたくなったときどうすればいいのか?
ダビデを諭したナタンに倣いましょう。たとえ話を用いました。
ダビデは自ら非を悟りました。(詩篇第51編)
ファリセイ(パリサイ)派を批判したハリストス(キリスト)に倣いましょう。実はファリセイ派をダシに自らの弟子を諭しているのです。
「キミたちも同じことをやっていないかい?ファリセイ派のパン種に気をつけなさい!」
ガラテヤの教会を叱った聖使徒パウェル
・・・叱られているのはガラテヤの教会だけでしょうか?
・・・かと言って例えば障害者の方を引き合いに出して、
「だからオマエもガンバレ!」ってのはダメよ!
そゆことは障害者の方々と触れ合って本当に気持ちが少しでもわかってからするべきです。
”負い目”を感じている人は、それに押しつぶされて”卑屈”になるか?それを払拭しようとして”尊大”になるかです。どちらも悪魔が喜びます。”負い目”そのものが悪魔のまやかしであり、”負い目”自体を洗い流すのが”福音”ではないでしょうか?悪魔がかどわかして私たちの先祖のアダムとエヴァに食べさせた”知恵の実”が、そもそもの”負い目=罪の意識”の根源ですから。
「全て疲れた人、重荷(負い目)を負っている人は私のもとに来なさい。私が休ませてあげよう。」
(マタイ伝11:28)
”負い目という重荷”をおろさせてくださるのが
ハリストス(キリスト)。他人にこれを負わせて支配しようとするのはファリセイ(パリサイ)派です。
「いまわしきものよ偽善の律法学者ファリセイ派。おまえたちは他人に重い荷物(負い目)を背負わせておいてそれを動かすのに指一本貸そうとしない。」
・・・叱られているのはファリセイ派だけでしょうか?