2008年01月30日

”東京ラプソディ”にも”ニコライの鐘”が・・・

http://www.youtube.com/watch?v=voe0A13i_70&feature=related

名曲”ニコライの鐘”に続いて”東京ラプソディ”にも2番の歌詞に、”ニコライの鐘”が登場することを発見!しました。
 
 ♪うつつに夢見る君の
  神田は想い出の街
  いまもこの胸に この胸に
  ニコライの 鐘も鳴る
  楽し都 恋の都
  夢の楽園よ 花の東京

作詞は”長崎の鐘”はサトーハチロー先生ですが、
”ニコライの鐘””東京ラプソディ”が門田ゆたか先生、
どちらも”青い山脈”などで知られる西条八十の弟子だったそうです。門田先生は”ニコライの鐘”がお気に入りだったのかナ?

歌はどれも藤山一郎先生。昔の歌手は発声と発音がきれいなので
お手本になりますね。

ちなみに作曲は、”長崎の鐘”と”ニコライの鐘”が古関裕而先生。
”東京ラプソディ”は古賀政男先生・・・”古賀メロディ”だったんですね。

伝統ある教会の建造物は、マサモトさんの言われるとおり中に入ってみても何か不思議な霊的なものを感じるのでしょうね。
また外から見ても、街の風景に溶け込んで、市民に親しまれているということですね。

”正教会”は、このように親しまれる要素があるんだから、閉鎖的になっちゃダメよ!
”百万本のバラ”でもボーケリスト・ピーメン、頑張ってるんだから!(フィルメンくんと同じく頑張らない主義なのにね)



posted by ピーメン at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月27日

カラオケ喫茶で”ニコライの鐘”

今日は日曜なので昼間から行きつけのカラオケ喫茶”セーヌ”へ。
最近ご縁のある沖縄のポップスを中心に歌っていました。
そこに現れたのがお年は私よりやや召しておられるものの
よく通る高い声で懐メロを歌われる美人のM子さん。

ピーメンが歌う”涙そうそう”や”島人ぬ宝(しまんちゅぬたから)
を感動して聴いて下さっていました。M子さんは、以前にも聴かせて
もらったことのある故・藤山一郎先生が歌われた、”ニコライの鐘”
を歌われました。”長崎の鐘”と並んで教会の鐘をモチーフにした歌です。クリスチャンであるとないとに関わらず、人々の癒しになっている歌だと思います。

・・・ピーメンが最後の歌”愛燦燦”を歌い終えて帰ろうとしたとき、ひらめきました!”ニコライの鐘”を聴かせて下さったM子さんに
ピーメンがいつも持ち歩いている、ニコライ堂の建立者・・というより日本正教会の創立者;ニコライ大主教のイコン(肖像画みたいなもの)を差し上げたら、喜ばれるのではないかと・・・

案の定、とても喜んでもらえました。今後”ニコライの鐘”を歌われるときは、是非ニコライ大主教のイコンを携えて、彼のことを思って歌って頂けると・・・さらに「裏面に記念のサインが欲しい!」と言われましたので、日付と、
”M子さまへピーメンより”ニコライの鐘”歌唱記念”と書きました。

他の場所で教会の話をすると、「宗教の話!」と言って非難されたこともあります。どうも大抵の日本人は、お寺の法事や葬式、神社の参拝などは”宗教!”という意識がないようで、生活に溶け込んでいるからでしょうか?正教会も東京の神田、御茶ノ水かいわいでは”ニコライ堂”が街の風景に溶け込んでいるので、信徒やクリスチャンでない人々からも違和感なく親近感を持ってもらっているのですね。

それで歌謡曲の題材にも使われている。それどころか正教会の関係者以外の人々にも”ニコライの鐘の音”が慰めや癒しになっている。

一方”長崎の鐘”は、おそらくカトリックの信徒さんが奥様に先立たれた悲しみを教会の鐘の音が慰め、励ましてくれた・・・という内容ですね。

このように”教会”は、クリスチャンにもクリスチャン以外の人々にも”慰め”や”励まし””癒し”を与えるものでありたいですね。
ね・・・どこかの神父さん?
posted by ピーメン at 18:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月26日

楽曲のギターコードを知る方法

http://www.xxxsound.jp/main/index.html

ピーメンは”ライブ友”アンモンと同じく、ギターのコード進行が
難しい曲でなければ即興で伴奏や弾き語りができます。
しかし曲や作者によっては、凝ったテンションコードなどがあって
困ることがあります。↑のサイトは、そう言った曲のギターコードを
教えてくれるありがたいサイトです。今見つけました。
・・・・これで練習してみよっと・・・
posted by ピーメン at 01:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月21日

落語とヒーリングミュージック

一昨日19日は、八事ポップコーン寄席で落語の会。
大好きなかね平さんの落語に遅れてしまい、途中から聴きました。
しかし最後の”下げ”の部分に感動しましたね。
呑んだくれの亭主がおかみさんと喧嘩して(お使いに)
追い出したあとの独白・・・・

「口ではぞんざいに言っても、こんな呑んだくれの世話をしてくれる
女房にいつも腹の中では手を合わせているんだヨ!隣の女房がオイラの世話をしてくれるわけでなし。おっかあ、いつもありがとよ。
           ・・・あれ?おめえまだいたのかい!?」
・・・ほのぼのとする”下げ”ですね。
”独り言”でありながら、本当は”伝えたい”という気持ちがある。
これを演じる噺家さんも、落語にかこつけて普段奥さんに言えない
感謝を”伝える”こともできるかと・・・聴いたお客さんも亭主の立場で女房の立場で感じる・・・いやはや落語はすばらしい!

よその教会の信徒さんが”ご奉仕・献金”してくれるわけもなし、
神父さんや牧師さんは、信徒さんに”手を合わせて”いるんでしょかね?落語の長屋噺でも、”向こう三軒、両隣”といって、困ったときは”隣の女房”が心配してくれることもあるんです。

”隣人愛”をとく教会が、他の教派の教会とパン(福音)を分かち合えないのは頂けませんねえ・・・・

その後の我楽さん。奥さんの実家からもらった沢山のおもちがまだ片付かないので「お正月は終わっていない」との枕。クリスチャンはパンを分け合うけれども、日本人だからおもちを分け合っている。
そういえば正教会の祈祷文では、”餅”と書いて”パン”と読んでいたっけ・・・

「おもちを分け合っているから、”もちつもたれつ”というギャグはどうですか?」と提案したら、
「お客さんからネタもらっちゃった!来年の正月に使わせてもらいます。」と言ってくれました。

次の道楽さん。かね平さんとは同じ大学の落研の遠い後輩でありながら、”奇跡的な出会い”で一緒に落語をやっている。そういえば
ピーメンもポップコーンに出ているベテランマジシャンMr.マツナガとは30年ぶりの”奇跡の再会”だったんだっけ・・・

そして”トリ”の 槍田家志よ朝さん。ベテラン消防士さんだそうで
「一度署長をやりたい!」というところから取った芸名だそうな。
”富くじ”を題材にした落語を臨場感たっぷりに演じられて、
引き込まれました。場面の切り替えはまるで”映画”を見るよう・・
「消防士さんなら、お酒は”はしご酒”ですか?」と聴いたら、
この日は車で来られたのでコーラを飲んでおられましたな・・・
こ〜ら失礼いたしました(*^_^*)

落語の上手な聴き方・・・素直な気持ちで笑えるところは笑い転げる
・・・ですね。”評論家気取り”では楽しめません。

そして落語の後は・・・
癒しの音楽。ボサノバを基調とした”癒しの音楽”のライブ。
グループ名が”プラネット・ラブ。文字通りプラネタリウムで星を見ながら聴きたくなる音楽でした。

こちらもリズムに合わせて無邪気に手拍子したりひざを叩いたりしていたらミュージシャンの方がとても喜んでくれましたね。”リズム”も”笑い”と同じく心身の健康に良いんですよね。音楽のリズムのアクセントに合わせて手拍子すると、”共鳴”します。
その音楽を噺家さんたちと交流しながら聴けました。
・・・暖かい”中身の濃い”夜でした。





アレンジメント「フリッシュ」




posted by ピーメン at 00:28| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月16日

<もし目が見えていたら・・・>

「ボクは気性が激しいから、もし目が見えていたらお父さんをアメリカまで追いかけていって殺してしまったかも知れない。目が見えないからお父さんを殺さずにすんだ・・・」

最近、私の尊敬するクリスチャンの半生がテレビドラマになりました。沖縄出身の盲目の天才テノール歌手 新垣勉(あらがきつとむ)さんです。
http://www.effatamusic.co.jp/
私は新垣さんが今ほど有名になるまえ、4回もナマでコンサートを
聴ける幸運に恵まれました。

冒頭のコメントは、私が最初に新垣さんのコンサートでナマで聴いたものです。ある教会の礼拝堂での”おしゃべりコンサート”でした。
(俳優の大和田伸也さん獏さんのお兄さんがやっている教会です。)
http://nskk.org/chubu/church/02mark.html

メキシコ系アメリカ人の米軍の軍曹と沖縄の女性との間に生まれ、生まれて間もなく目薬と間違えて家畜を洗う薬剤を助産婦さんに目に入れられて盲目となり、母方のお婆さんに引き取られてお婆さんを”お母さん”と思って暮らしていた。たまに通ってくるお母さんを”お姉さん”と思っていた・・・・

お婆さんが亡くなり、17歳の少年に、混血 盲目 天涯孤独というとんでもない”試練”が与えられた。井戸に身を投げて死のうとしたが死に切れず、讃美歌の調べを頼りに訪れた教会での牧師さんとの出会い。(・・・・私はこの牧師さんと”大親友”と仰る牧師さんと交流させて頂いています。それで新垣さんを身近に感じるのですけれども。)

牧師さんは新垣少年の身の上を聴いて、一切説教じみたことは仰らずただただ”泣いて”下さったそうです。教会で牧師さん一家の家族のように暮らすうち、歌の才能を認められて、三谷先生、バランドーニ先生との出会い・・・大歌手マリオ・デルモナコのヴォイストレーナーも勤められたバランドーニ先生から、
「キミの声はラテンの声だ。日本人離れしている。お父さんのラテンの血に感謝しなければね。」
と言って頂いてお父さんを憎む気持ちが消えた・・・・

新垣さんはもともとお父さんを”恨む”よりも”求めて”おられたのではないでしょうか?
♪知らないはずの父の手に 抱かれた夢を見た
  お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの
”さとうきび畑”より)

新垣さんのコンサートをナマで聴かなければわからないのは、新垣さんはいつも笑顔で実に楽しく”だじゃれ”を飛ばして歌やおしゃべりをされていることです。かつての苦労など微塵も感じさせません。

クリスチャンの端くれの私自身、自分などよりもはるかに”艱難”に遭っておられる新垣さんが、はるかに”感謝と喜びの生活”をしておられることに、”憧れ”と”希望”を抱きます。

”艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。”(聖書)
まさにこの通りのことを体現しておられるように感じます。

わかったようなふりをしない・・・・

テレビドラマの中でこんなシーンがありました。大学時代に友人が、
「キミはお婆さんの子供として育ったんだろ?お母さんが再婚しやすいように。オトナは勝手だね。いつも犠牲になるのは子供・・・・」
と、”わかったようなこと”を言ったときに、新垣少年は激怒した。盲目の体で友人の胸倉をつかんだ。
「ボクが自分でも解らないことを何でキミが決め付けるんだ?!」

お母さんに対してもわだかまりがあった新垣少年ですが、こうもあからさまにお母さんを非難されると、怒るのは当たり前です。

また、新垣さんを引用してこのように言う人がいないでしょうか?
「新垣さんは盲目、混血、天涯孤独 というハンデを背負ってもがんばっているじゃないか?五体満足な者が文句を言っていてはいかん?ガンバレ!」
・・・こういわれてガンバレる人、いますか?新垣さんに対しても、言われた人に対しても失礼だと思います。

冒頭の新垣さんのセリフは、私はコンサートで直接聴いたものです。

「ボクは気性が激しいから、もし目が見えていたらお父さんをアメリカまで追いかけていって殺してしまったかも知れない。目が見えないからお父さんを殺さずにすんだ・・・」

「うらみ、つらみの感情を抱えては前に進めない。」

新垣さんの言葉ですが、これも軽々しく引用するべきではないと思います。なかなか人を”赦せない”のは、神ならぬ身、仕方のないことです。新垣さんがどのようにして、”うらみ・つらみ”から、”感謝のくらし”を手にいれたのか?

それを新垣さんの半生を辿り、新垣さんの歌とともに味わうことで一つ一つ学んで行くべきだと思います。新垣さんのメッセージを直接聴けたからこそ”軽々しく引用”する気になれないのです。
軽々しく引用するには、あまりにも”重い言葉”です。

私自身も”他人に言えない”というよりも、”言っても解ってもらえない”艱難を背負っています。ドラマの中の新垣少年のように、
”わかったようなこと”を言われると腹が立ちます。

「わかったふりをして同情する。」 
「わかったふりをして”裁く”。」・・・言語道断です。

私の同じアパートに障害者の方が暮らしていまして、ごくたまに手助けをさせてもらうことがありますが、私は間違っても、「彼の気持ちが解っている。」とは思わないようにしています。
「そう簡単にわかるはずがない。わかる部分で触れ合えれば良い。」と思っています。

お幸せに・・・
ある夏の日、交差点付近に托鉢のお坊さんがたっていまして、100円玉をひとつ入れましたら、汗ばんだ顔でニッコリ笑って、
「お幸せに!」と言ってくれました。詳しく聴いておけば良かった・・・・
「お坊様、”幸せ”は、”何が与えられるか”ではなくって、”どう受けとめるか”でしょうか?」って。
・・・この辺に”幸せになるカギ”がありそうな・・・・

posted by ピーメン at 01:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月01日

新春エッセイです!

新年明けましておめでとうございます!
”ボーケリスト”ピーメンは、”エッセイイスト”でもあります。
新春記念エッセイをひとつ・・・

<”お返し”はないけど”仕返し”はあるの?>


ある喫茶店での出来事です。
一人のお客さんがママさんに梅の木の置き物を持って来てプレゼントしました。

「まあ、いつも頂くばっかりですみませんねえ!お返しがしたくても私はビンボーでお返しができないんです。」
「いえいえ、いつも暖かい雰囲気の中でコーヒー飲ませてもらってるんでその”お礼の気持ち”ですよ。」

お客さんから色々もらえるのはママさんの”人徳”だと思っていましたが、私には素直に喜べないことがありました。

私の懇意にしている別のお客さんのKさんも家庭農園をやっていて、里芋とかねぎとか持ってきてあげていました。
私も”無農薬”の里芋を先日もらったばかりです。

特技を活かしてお店の前の車庫の花壇(プランタン)もただで造ってくれたのもKさんです。
また、中国人のパートの女性が日本語に慣れないので、連日お店の終了時間間際に来て、話し相手になって日本語の”特訓”をしてあげたのもKさんです。

ところが・・・・
農業(家庭農園)をやっているKさんが時間に鷹揚なので、お店の終了時間間際に来店することが
多かったのですが、ママさんはそれを実に迷惑そうに私に話すのです。

そしてその”事件”は起きました。
Kさんと私が二人で別のお店に出かけるのに、私の車に同乗して、Kさんの車をそのお店の駐車場に停めさせてもらいました。
”二時間ぐらいで取りに来る”と言ってでかけましたが、予定が狂って大幅に時間をオーバーしてしまい、Kさんの車を一晩停めてしまうことになってしまいました。

Kさんとしても、「お店には迷惑かもしれないが、色々やってあげてることもあるから・・・」という気持ちがあったかも知れません。

しかしお店に行ってみると待っていたのは・・・
「迷惑だったんで警察に通報しましたよ!」という言葉でした。
誰ともわからない人が停めたのではない。Kさんは”常連客”です。しかし普段からの不満がこういう形で出たのかも知れません。
・・・”お返し”はないけど”仕返し”はあるの?

一体ママさんはKさんに”してもらった”ことを忘れてしまっているのか知らん?

Kさんの車を一晩停めてしまったことには同乗していた私にも責任があるので私はママさんに翌日謝りに行きました。

謝るときは、言い訳よりもまず相手の気持ちを第一に考えることが大切です。肩肘張って言い訳したり、自己を正当化しようとすると余計こじれます。

「ママさん、昨日はゴメンネ〜!迷惑かけちゃったネ。これKさんだけじゃなくてボクも悪かったんだヨ。」
と言いましたら、色々事情を話してくれました。

一晩車を停めたことよりも、土曜日の朝でしたので、朝の7時から9時というかきいれ時の時間を車一台分つぶされたことが”打撃”だったそうです。そのため何度もKさんの携帯に電話しても留守電になっている。
何度も何度も駐車場を見に行ったそうです。
・・・なるほどそれは怒るのも”無理はないナ”

「でも、”警察に通報”はやりすぎだったわね。Kさん怒っているかしら・・・」
「三人それぞれに非があったわけで、誰”だけが”悪いというわけではなかったわね。」
・・・というところまで”譲歩”してくれました。

そもそもこのママさんが普段は明るくて暖かいのに、時々”カーッ”と来るのは、よんどころない”家庭の事情”によるものだと以前
聴かされていました。

個人的事情まで話してくれるのは、心を開いてくれていることなんだけど、また、自分も似たような問題を抱えていたので理解できるのだけれども
・・・・でもそれで関係ないお客に八つ当たりしちゃダメよ!

”赦す”ということは、”我慢する”ことではありません。”理解する”ことだと思います。”対等目線”で向き合って事情が理解できれば、相手を”けしからん!”と裁くのではなく、”無理もないナ”と理解し”赦す”ことができましょう。

そして当の本人がその言動を自分で説明できないほど混乱しているか?あるいは正当化しているか?
納得できる説明も陳謝もせず言い訳ばかりしている?場合でも、他の人が悟らせてくれることもあります。

父親を殺したいほど憎んでいた盲目の少年が、”父のラテンの血によって日本人離れした声が与えられた”ことをヴォイストレーナーから言われて、父を赦せた・・・あるいは”赦したい!”という気持ちを確認できた。この間、彼を”棄てた”父親は彼に対して何の謝罪もしたとは私は聴いていません。

でも彼は”赦せた”・・・
「お父さんに会えたら、ヘタな英語で挨拶したい。お父さんからもらった声で歌を聴いてもらいたい。」
♪お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの
                 (”さとうきび畑”より)

十字架上のハリストス(キリスト)には、裏切りの接吻をしたイウダ(ユダ)も、三度否定したペートル(ペテロ)も、自分を十字架にかけたファリセイ(パリサイ)派や、はてはローマ軍兵士たちの気持ちや事情を、神の御子としてすべてお見通しで理解しておられたのではないでしょうか?

「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているかわかっていないのです!」

最初の殉教者ステファノ(ステパノ)もこの言葉を残して召されました。

「主よ私の霊をお受けください。彼らに罪を負わせないで下さい!」


・・・人間、うぬぼれが強いものですから、
”他人にしてもらった良いことへの感謝”は忘れてしまって、
”他人にされたありがたくないことへの不満”
”他人にしてあげたことへの感謝の要求”
が主体になってしまいがちです。

他人に不満を感じたならば、あるいは恩に着せたくなったならば、
今一度その相手に対して”感謝できること”を思い返してみる必要があるのではないでしょうか?良くしてあげたことに感謝されず、悪いことに文句ばかり言われていたらこれに耐えられる人はそうはいません。

「あの人は私に文句ばっかり言っているが、私のしてあげた”良いこと”は忘れてしまっている!」
・・・これは誰でもわかります。その逆を考えてみることが大切です。いかに自分が”感謝知らず”だったかわかるかも知れません。
           (そういう自分自身が・・・冷や汗(~_~;)

”感謝”とは”負い目を感じること”ではなく、”喜びを感じること”です。”福音”とは、”主イエスによって、負い目から開放されたことを伝えること”です。主にあるものが、”他人に負い目を負わせる”ファリセイ派のような言動をしてはなりません。

”恩に着せ”てはなりません。”感謝”するのです。そして”感謝できる”ことが”喜び”だということを知りましょう。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆることに”感謝”しなさい。」(テサロニケ)

そして”負い目”・・・
人間弱いものですから、自分の”負い目”を責められると余計に頑なになります。これはどんな人でも同じだと思います。
”負い目”と感じていなければ誰に責められても平気です。
(落合監督みたいに)

他人の”負い目”を責めたくなったときどうすればいいのか?
ダビデを諭したナタンに倣いましょう。たとえ話を用いました。
ダビデは自ら非を悟りました。(詩篇第51編)

ファリセイ(パリサイ)派を批判したハリストス(キリスト)に倣いましょう。実はファリセイ派をダシに自らの弟子を諭しているのです。
「キミたちも同じことをやっていないかい?ファリセイ派のパン種に気をつけなさい!」

ガラテヤの教会を叱った聖使徒パウェル
・・・叱られているのはガラテヤの教会だけでしょうか?

・・・かと言って例えば障害者の方を引き合いに出して、
「だからオマエもガンバレ!」ってのはダメよ!
そゆことは障害者の方々と触れ合って本当に気持ちが少しでもわかってからするべきです。

”負い目”を感じている人は、それに押しつぶされて”卑屈”になるか?それを払拭しようとして”尊大”になるかです。どちらも悪魔が喜びます。”負い目”そのものが悪魔のまやかしであり、”負い目”自体を洗い流すのが”福音”ではないでしょうか?悪魔がかどわかして私たちの先祖のアダムとエヴァに食べさせた”知恵の実”が、そもそもの”負い目=罪の意識”の根源ですから。

「全て疲れた人、重荷(負い目)を負っている人は私のもとに来なさい。私が休ませてあげよう。」
(マタイ伝11:28)

”負い目という重荷”をおろさせてくださるのが
ハリストス(キリスト)。他人にこれを負わせて支配しようとするのはファリセイ(パリサイ)派です。

「いまわしきものよ偽善の律法学者ファリセイ派。おまえたちは他人に重い荷物(負い目)を背負わせておいてそれを動かすのに指一本貸そうとしない。」
・・・叱られているのはファリセイ派だけでしょうか?
posted by ピーメン at 02:09| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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